豐多摩研究所 代々木乘合自動車株式會社
2017-02-18 作成
2020-11-10 再製
豐多摩研究所 バス路線史 https://toyotamakenkyusyo.github.io/bus_route_history/index.xhtml
GitHub 豐多摩研究所 バス路線史 https://github.com/toyotamakenkyusyo/bus_route_history
文字は今後、IPAmjフォントの異体字に対応予定。
概要
代々木乘合自動車株式會󠄁社󠄃 の歴史をまとめる。
[註0_2] [註1] [註2] [註3] [註4] は同時代の史料である。[註5] [註5_2] [註5_3] [註6] [註7] [註7_2] の一部[註8] [註19] の一部[註21] は互いに独立しており、影響を与えていないと思われる。
代々木乘合自動車株式會社
1920年9月(大正9年9月)、代々木乘合自動車株式會社が設立された[註7] 。代々木乘合自動車株式會社は代々木近辺の地元有志数人が集まって設立した[註7] 。
1920年12月(大正9年12月)、代々木乘合自動車株式會社の資本金は20000円であった[註7] 。
1920年12月8日(大正9年12月8日)、代々木乘合自動車株式會社は営業許可があった[註3] 。
1920年12月25日(大正9年12月25日)、澁谷區上通三丁目4番~澁谷區榮通一丁目14番~澁谷區代々木上原町1240番の2.7kmが開業した[註5] 。
1921年6月30日(大正10年6月30日)、澁谷區代々木上原町1240番~澁谷區代々木大山町18番~澁谷區幡ヶ谷原町900番の1.6kmが開業した[註5] 。
代々木乘合自動車株式會社の営業成績は芳しくなかった[註7] 。中西清一は五島慶太に代々木乘合自動車株式會社の経営を依頼した[註7] 。五島慶太は辞退して近藤富次郎を推薦した[註7] 。1922年8月(大正11年8月)、近藤富次郎が代々木乘合自動車株式會社の専務に就任した[註7] 。近藤富次郎は代々木乘合自動車株式會社の将来性に目をつけ、8000円を投資して経営に参画した[註19] 。渋谷駅前のバラック車庫に蜜柑箱の椅子を並べて、近藤富次郎とその一族は終日、血の出るような経営に苦難をなめた[註19] 。近藤富次郎は代々木乘合自動車株式會社の立直しに成功した[註7] 。
1922年12月23日(大正11年12月23日)、澁谷區代々木上原町1240番~世田谷區北澤四丁目393番~世田谷區北澤二丁目203番の1.6kmが開業した[註5] 。
1922年12月29日(大正11年12月29日)、澁谷區上通三丁目4番~澁谷區大向通25番~澁谷區代々木西原町1028番の2.7kmが開業した[註5] 。
1923年9月(大正12年9月)、五島慶太が代々木乘合自動車株式會社の取締役に就任した[註7] 。五島慶太は誰も問題にしていなかった頃から乗合自動車の将来性を信じて代々木乘合自動車株式會社を経営していた[註5_2] 。
1924年8月30日(大正13年8月30日)、代々木乘合自動車株式會社は、渋谷駅前から駒場道に沿って幡ヶ谷駅付近に至る電車敷設を計画していた[註0_2] 。
1926年5月3日(大正15年5月3日)以前、代々木乘合自動車株式會社は澁谷~幡ヶ谷の約5.1km、澁谷~代々木八幡下の約1.9kmを運行していた[註1] 。午前6時30分~午後11:30分に5分毎に発車し、淡島行きは不定期運転だった[註1] 。回数券は22回の1円券と68回の3円券があった[註1] 。小学生券は7割5分引き、中等以上の学生券は5割引きであり、学生券は在学証明書を必要とした[註1] 。澁谷驛前停留場には待合所を特設し、到着した自動車は、屋内のターンテーブルの上に停車して乗客を降ろし、ターンテーブルを回転して自動車の方向を転じた[註1] 。専務取締役は近藤富次郞であった[註1] 。
表1 澁谷驛前~三角橋、三角橋~幡ヶ谷、澁谷驛前~八幡下、三角橋~淡島 代々木乘合自動車株式會社[註1]
区界停留場
停留場名
運賃(銭)
時分(分)
澁谷驛前より
澁谷驛前より
○
澁谷驛前
○
大向
5
荒木山下
10
○
農大正門前
10
5
松ノ木下
15
○
圖書館脇
15
8
二ツ橋
20
○
農大裏門
20
○
三角橋
25
10
(幡ヶ谷線)
三角橋より
三角橋より
○
大山園前
5
○
電業社前
10
火葬場入口
15
○
幡ヶ谷
15
6
(富ヶ谷線)
澁谷驛前より
澁谷驛前より
○
澁谷驛前
○
大向
5
澁谷深町
10
○
富ヶ谷(井上馬場下)
15
7
代々木本村
15
○
八幡下
20
9
(淡島線)
三角橋より
三角橋より
○
三角橋
火の見下
5
殖民學校前
5
淡島前
10
1926年11月(大正15年11月)、澁谷、淡島、幡ヶ谷間が運行されていた[註2] 。
1927年7月1日(昭和2年7月1日)、代々木乘合自動車株式會社は澁谷驛前~代々幡町三角橋、澁谷驛前~代々幡町代々木西原、代々幡町三角橋~代々幡町幡ヶ谷、代々幡町三角橋~世田谷町淡島前の約9.0kmを運行していた[註3] 。1927年7月1日(昭和2年7月1日)、代々木乘合自動車株式會社の資本金は80000円、従業員は74人、車両は16両であった[註3] 。
1927年11月1日(昭和2年11月1日)~1928年3月10日(昭和3年3月10日)、代々木乘合自動車株式會社は代々幡町大字代々木1240番にあった[註4] 。
1929年8月(昭和4年8月)以前、代々木乘合自動車株式會社は幡ケ谷自動車を買収して幡ケ谷から中野方面にまで路線を延長していった[註7] 。
1929年8月(昭和4年8月)、代々木乘合自動車株式會社は東京橫濱電鐵株式會社の傘下に入った[註7] 。
1929年8月19日(昭和4年8月19日)、代々木乘合自動車株式會社の臨時株主総会において、専務取締役の近藤富次郞、取締役の五島慶太、伊崎捨次郞、加藤義滿、提橋龜太郞、瀨戶喜重郞、朝倉虎治郞、監査役の柾丹治、須田千太郞、小林源十郞が辞任し、取締役に五島慶太、近藤富次郞、篠原三千郞、今村信吉、監査役に澁澤秀雄、朝倉虎治郞が就任した[註5_3] 。
1929年9月16日(昭和4年9月16日)、代々木乘合自動車株式會社の臨時株主総会において、ヱビス乘合自動車株式會社との合併契約を承認可決した[註5_3] 。
1929年11月21日(昭和4年11月21日)、代々木乘合自動車株式會社はヱビス乘合自動車株式會社に合併された[註7] 。1943年?現在の代々木線は、代々木乘合自動車株式會社が前身である[註5_3] 。
地図
図1 代々木乘合自動車株式會社の乗合自動車の路線図 停留所の位置は東橫乘合株式會社の頃からの推測である。停留所名は[註1] による。上の背景地図は国土地理院の地理院タイルhttp://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html を使用している。下の背景地図については、この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。下の背景地図は1/25000「東京西部」及び「東京西南部」昭和4年二修・昭和6.6.30発行である。
註
[註0_2]
[2] で公開された[1] による。
引用(出典: [1] . [2] .)
又代々木自動車会社では渋谷駅前より駒場道に沿うて京王電車の幡ケ谷停留場附近に至る電車敷設を計画中で
引用(出典: [1] . [2] .)
[註1]
[4] で公開された[3] による。1926年5月3日印刷である。
引用(出典: [3] , pp. 198-226. [4] .)
運轉區間
哩程 哩
經營者氏名
澁谷―幡ヶ谷
三、二
代々木乘合自動車
同―代々木八幡下
一、二
同
澁谷驛前―三角橋 三角橋―幡ヶ谷 澁谷驛前―八幡下 三角橋―淡島 間代々木乘合自動車
停留場名
澁谷驛前より 錢
同時分 分
○澁谷驛前
―
―
○大向
五
―
荒木山下
一〇
―
○農大正門前
一〇
五
松ノ木下
一五
―
○圖書館脇
一五
八
二ツ橋
二〇
―
○農大裏門
二〇
―
○三角橋
二五
一〇
(幡ヶ谷線)
三角橋より 錢
同時分 分
○大山園前
五
―
○電業社前
一〇
―
火葬場入口
一五
―
○幡ヶ谷
一五
六
(富ヶ谷線)
澁谷驛前より
同時分
○澁谷驛前
―
―
○大向
五
―
澁谷深町
一〇
―
○富ヶ谷(井上馬場下)
一五
七
代々木本村
一五
―
○八幡下
二〇
九
(淡島線)
三角橋より
同時分
○三角橋
―
―
火の見下
五
―
殖民學校前
五
―
淡島前
一〇
―
「備考」○印は區界停留場
營業案內
一、午前六時半より午後十一時半まで五分毎に發車、但し淡島行は不定期運轉
二、沿道の名所學校等 本線は農科大學、名教中學、天然園大山園幡ヶ谷火葬場行の近道であり、富ヶ谷線は井上馬術練習場、代々木八幡、代々木練兵場への、又淡島線は海外殖民學校、陸軍衛戍病院への近道である。
三、囘數券は一圓券(二十二囘)と三圓券(六十八囘)との二種であるが、小學生券は七割五分引、中等以上の學生券は五割引である。但し學生券には在學證明書を必要とする。
四、旅客待遇に深甚の注意を拂ひ澁谷驛前停留場には寒暑雨雪を凌ぐべき待合所を特設してある。即ち茲に到著する自動車は屋內のターン、テーブルの上に停車し乘客の降車を待つてテーブルを𢌞轉して自動車の方向を轉ずる趣向を凝らしてあるので雨降りにも少しも濡れる心配がない。
五、沿道の名所中大山園は近郊稀に見る名園で山あり、谷あり運動場あり、四季を通じて散策に適する就中櫻と躑躅とは其名が著はれて居る。
六、專務取締役近藤富次郞氏
[註2]
[6] で公開された[5] による。代々木・澁谷、淡島、幡ヶ谷間乘合自動車として、三ツ橋、富ヶ谷、深町が記載されている。
[註3]
[8] で公開された[7] による。
引用(出典: [7] , pp. 141-147. [8] .)
東京都市計畫區域內に於ける乘合自動車 (昭和二年七月一日現在)
經營主體
資本金額
營業區間
路線延長
車輛數
從業員數
最初の開通年月日
千円
總長 哩
都市計畫區域內 哩
代々木乘合 自動車株式會社
八〇
澁谷驛前―代々幡町三角橋、 澁谷驛前―代々幡町代々木西原、 代々幡町三角橋―代々幡町幡ヶ谷、 代々幡町三角橋―世田谷町淡島前
五・六
五・六
一六
七四
同九、一二、八 (營業許可)
(東京都市計畫區域内八十四ヶ町村) 東京都市計畫區域内ニ於ケル町村別人口密度圖 (人口密度ハ大正十四年十月一日現在 交通機關ハ昭和二年七月一日現在)
[註4]
[10] で公開された[9] による。1927年11月1日現在。但し印刷まで加除訂正。1928年3月10日印刷。
引用(出典: [9] , pp. 27-48. [10] .)
代々幡町代々木一二四〇 代々木乘合自動車株式會社
[註5]
[20] で公開された[19] による。
引用(出典: [19] , pp. 1-34. [20] .)
番號
事業種別
起點又ハ分岐點
主ナル經過地
終點
粁程
開業年月
1
旅客
澁谷區上通三ノ四
榮通一ノ一四
代々木上原町一二四〇
2.7
大9.12.25
2
〃
〃代々木上原町一二四〇
代々木大山町一八
幡ヶ谷原町九〇〇
1.6
〃10.6.30
3
〃
〃
世田谷區北澤四ノ三九三
世田谷區北澤二ノ二〇三
〃
〃11.12.23
4
旅客
澁谷區上通三ノ四
大向通二五
澁谷區代々木西原町一〇二八
2.7
大11.12.29
[註5_2]
[20_3] で公開された[20_2] による。
引用(出典: [20_2] , pp. 36-41. [20_3] .)
なお、乗合自動車の如きも、未だ誰も問題にしていなかった頃から、私はその将来性を信じて、はやくから別に代々木乗合を経営しておりました。この代々木乗合が旧東横乗合株式会社、即ち現在の東横電鉄自動車部の母胎となり、今日では中央線から東海道線に至る間、海を除いた東京の3分の1の地域の乗合自動車を統制しております。興業費の点から見れば、自動車部は350万円位であるが、収入は東横電車より多く一日約1万円位であります。かように、乗合自動車、田園都市業、その他諸種の沿線開発策の成功と、東横百貨店が地の利を得た事とに依り、会社は著しき発展を遂げました。
[註5_3]
[20_5] で公開された[20_4] による。
引用(出典: [20_4] , pp. 605-634. [20_5] .)
(ロ)、代々木乘合自動車株式會社
ヱビス乘合に合併された代々木乘合の最初の開通は、大正九年十二月廿五日で、東京近郊では第四位の古い歷史を有して居た。
昭和四年八月十九日の臨時株主總會に於て、專務取締役 近藤富次郞、取締役 五島慶太、伊崎捨次郞、加藤義滿、提橋龜太郞、瀨戶喜重郞、朝倉虎治郞、監査役 柾丹治、須田千太郞、小林源十郞の諸氏が辭任し、新に左の諸氏が就任した。
取締役 五島慶太 近藤富次郞 篠原三千郞 今村信吉
監査役 澁澤秀雄 朝倉虎治郞
昭和四年九月十六日臨時株主總會に於て、ヱビス乘合との合併契約を承認可決し、同年十一月廿一日實施された。現在の代々木線の前身がそれである。
代々木乘合自動車會社の舊本社營業所
[註6]
[22] で公開された[21] による。
引用(出典: [21] , pp. 306-317.)
が、後ち昭和三年十月代々木乗合自動車(経営者近藤富次郎)と合併して東横乗合自動車株式会社を創設し、更に昭和十一年五月三十一日、大正乗合自動車株式会社を合併し、翌十二年十一月一日、五島慶太を社長とし、名称も東京横浜電鉄株式会社と改めた。
代々木乗合自動車として大正十三年中に開通するところで、後ち中野・幡ヶ谷乗合自動車と代々木乗合自動車の合併した東横乗合自動車株式会社の経営する所となつた。
[註6_2]
[23] による。
引用(出典: [23] , pp. 2279-2283.)
代々木乗合自動車
渋谷駅前~三角橋(本線―停留所名―渋谷駅前・大向・荒木・山下・農大正門前・松ノ木下・図書館脇・二ツ橋・農大裏門・三角橋)
三角橋~幡ヶ谷(幡ヶ谷線―停留所名―大山園前・電業社前・火葬場入口・幡ヶ谷)
渋谷駅前~八幡下(富ヶ谷線―停留所名―渋谷駅前・大向渋谷深町・富ヶ谷・代々木本村・八幡下)
三角橋~淡島(淡島線―停留所名―三角橋・火の見下・殖民学校前・淡島前)
沿道の名所及び学校 本線は農科大学、名教中学、天然園大山園、幡ヶ谷火葬場行の近道であり、富ヶ谷線は井上馬術練習場、代々木八幡、代々木練兵場への、又淡島線は海外殖民学校、陸軍衛戍病院への近道である。
(『東京近郊電車案内』大正一五年による)
[註7]
[26] による。
引用(出典: [26] , p. 147.)
大正9年12月,代々木乗合自動車(資本金2万円)が,東京で4番目のバス会社として営業を開始した。路線は,渋谷~三角橋(現松陰学園前)間2.7キロメートルであった。しかし,同社は代々木近辺の地元有志数人が集まって設立した会社で,営業成績は芳しくなかった。そこで,地元の名士であった中西清一(明治43年~昭和4年渋谷町会議員,大正5年以降渋谷町第1区長)が,かつて鉄道院監督局長時代の部下であった五島慶太に,同社の経営を依頼してきた。
当時,五島慶太は,常務として武蔵電気鉄道の育成に没頭していたため辞退し,乗合自動車業に経験の深い近藤富次郎を推薦した。そして大正11年8月,近藤富次郎は代々木乗合自動車の専務に就任し,同社の立直しに成功した。
その後,大正12年9月,五島慶太は代々木乗合自動車の取締役に就任し,初めて乗合自動車業を手がけることとなった。そのころの五島慶太は,目黒蒲田電鉄の専務として活躍中であり,目黒~丸子間を開通させ,さらに蒲田までの延長工事を進めるなど,まさに上昇気運に乗っているときであった。しかしこの時点では,五島慶太が乗合自動車業を手がけたのは,個人的つながりによるものであって,会社としては直接の関係はなかった。
この代々木乗合自動車は,幡ケ谷自動車を買収して幡ケ谷から中野方面にまで路線を延長していったが,昭和4年8月,東京横浜電鉄のさん下にはいり,同年11月21日,姉妹会社のヱビス乗合自動車に合併された。
[註7_2]
[26_2] による。
引用(出典: [26_2] , pp. 607-613.)
第Ⅴ―15表 世田谷地内交通網一覧 (2)バス (昭和七年末現在)
経営会社名 昭和七・七
開業時の会社名
キロ程
使用車輛数
開通区間
他機関との主要連絡点
開通年月
備考
東横乗合自動車株式会社
代々木乗合自動車㈱
粁 二・七
不明
渋谷…………三角橋(北沢一―一七地先の区境)
山手線・玉電 東横線・市電 渋谷
大正九年(一九二〇)一二月
代々木乗合は東京で四番目のバス会社。昭四・一一エビス乗合自動車と合併し、東京横浜電鉄のバス事業の譲渡を受け、東横乗合自動車となる。
一・六
四
三角橋……北沢(池ノ上)……淡島
日東乗合 淡島
大正一四年(一九二五)二月
東横乗合自動車㈱
三・二
七
渋谷駅前…航空研究所…三角橋…東北沢
渋谷、小田急東北沢
昭和五~六年頃?
(参考) 小田急線の開通は昭和二年四月
[註8]
[27] による。
引用(出典: [27] , pp. 61-62.)
澁谷中野間の自動車。現在は澁谷驛西側廣場から澁谷神南、富ヶ谷を過ぎて環状六號線道路に出で、代々木八幡下から左に曲って幡代で甲州街道へ通ずる新道を路線として甲州街道へ出で、幡ヶ谷笹塚の境界の新道を青梅街道から中野駅前へと達してゐるが、この代々木中學下の新道、及び幡ヶ谷笹塚境界の改正道路が開通する以前は、現在幡ヶ谷を起點として渋谷、麻布霞町、虎の門、新橋、東京駅八重洲口間を往復する東京急行バス八重洲口線の渋谷幡ヶ谷間の路線、即ち東大前、東北澤を經て幡ヶ谷へ通ずる路線から甲州街道へ出で、甲州街道から六號橋通りを中野川島町、千代田橋を經て中野駅前へと運轉してゐたのであったが、之れは昭和三年頃開業された代々木自動車会社(渋谷、東北澤間)と、昭和四年開業した中野乗合自動車(中野川島町、東北沢駅間、後に中野駅まで延長)とが合併し、其の後小田急電鉄に買収された代々木乗合自動車会社の後身が、路線を変更したものと見るべきであらう(現在の經営は京王バスの傘下にある)。
[註10]
[31] による。
引用(出典: [31] , p. 6.)
大正9年12月25日
◎代々木乗合自動車株式会社が東京で4番目のバス会社として、渋谷~三角橋(北沢1―17地先(現松陰学園前)の区境)間、2.7㎞を営業開始。(『世田谷近・現代史』)
(同社は、代々木近辺の地元有志数人が集まって、大正9年9月に設立した会社である。)
◎代々木乗合自動車(株)は、世田谷の中を路線バスとして走った最初の乗合バスである。(『東京急行電鉄50年史』)
大正11年8月・―
◎代々木乗合自動車(株)の専務に近藤富次郎が就任し、経営の立直しをはかる。(『東急バス50年史』)
大正12年9月・―
◎代々木乗合自動車(株)の取締役に五島慶太が就任する。同社は幡ケ谷自動車(株)を買収し、幡ケ谷から中野方面まで路線を延長する。(『東急バス50年史』)
大正14年2月・―
◎代々木乗合自動車(株)、三角橋~淡島間(池ノ上経由)の1.6㎞を使用車両4輌で運行開始。(『世田谷区近・現代史』)
昭和4年8月・―
◎代々木乗合自動車(株)が東京横浜電鉄の傘下に入る。(『東急バス50年史』)
昭和4年11月21日
◎代々木乗合自動車(株)が、エビス乗合自動車(昭和3年10月1日設立。資本金25万円)と合併し、東京横浜電鉄のバス事業の譲渡を受け、商号変更して東横乗合自動車となる。(『世田谷区内交通網沿革一覧』・(『東急バス50年史』)
[註11]
[32] による。
引用(出典: [32] .)
鍋横では、代々木バスが大正13年に開通し、幡ヶ谷バスを昭和3年に吸収合併し、東横バスとなった。本社は渋谷区にあり、本郷通3丁目と宮園通1丁目に営業所をおいていた。昭和初期の一区間の料金は5銭で車柄は新フォードを使っていたが、当時定員はわずか16名という小型のものであった。(中野区史より)
[註12]
[33] による。
引用(出典: [33] , pp. 38-39.)
・中野周辺の東横乗合の路線免許(5ページ11行目)について。幡ヶ谷乗合は1928年10月、代々木乗合に合併され、1929年11月にヱビス乗合と東京横浜電鉄の自動車部門と合併して東横乗合自動車となり、1936年5月には大正乗合をも吸収(1935年7月買収)している。
[註12_2]
[32_3] で公開された[32_2] による。
引用(出典: [32_2] . [32_3] .)
1920年12月、代々木乗合というバス会社が、渋谷〜三角橋間で2.7kmのバス路線を開業します。この会社の経営に乞われた五島慶太氏は同社経営陣に代りの人材を送り込み、1923年震災直後には同社役員に就任することになります。(この項東京急行五十年史による。)この会社が、後で出てくる東横乗合の母体になり、これが東急バスのルーツといえそうです。
一方東横乗合のほうは1931年目黒(の)大橋〜大鳥神社間を開業、同年エビス乗合、代々木乗合を合併しますが、1936年東横乗合は東横電鉄に吸収されます。
[註13]
[32_4] による。
引用(出典: [32_4] .)
幡ヶ谷→代々木→東横と引き継がれた現在の京王中野営業所の路線は 中野~幡ヶ谷~東北沢~渋谷。渋63の原型のような路線だけど、 幡ヶ谷以南が現在の渋55のルートになっていた。 初台~渋谷のルートも元々は代々木→東横の路線で、戦前の京王は 渋谷へは乗り入れていなかった。
淡島/玉電バス淡島(営)に代々木乗合→東横代々木(営)が合流
[註14]
[35] による。
引用(出典: [35] .)
この路線は、1920(大正9)年12月、東急バスの前身の一つである、代々木乗合というバス会社が開設した、渋谷~三角橋間のバス路線(2.7Km)がルーツのようである*。
http://www1.cnc.jp/844/tokyu_hatagaya_hatsudai.html
http://www2u.biglobe.ne.jp/~busosogo/TKKb.htm
[追記]2003/02/25
*三角橋交差点の北東にバスの車庫(おそらく、今の幡ヶ谷の折返所みたいなものか?)があったらしい(「ふるさと世田谷を語る 代田・北沢・大沢・大原・羽根木」平成9年3月31日 世田谷区生活文化部文化課編・刊 206ページの地図)
引用(出典: [35] .)
その5年後の1925(大正14)年に、このバスは、淡島まで路線が延長されたらしい。
下北沢 世田谷区民俗調査第8次報告」昭63・3・31世田谷区教育委員会刊60ページに、「大正14年 代々木三角橋-淡島間に代々木バス開業」という記述がある
しかし、さらにその2年後の1927(昭和2)年、玉川バスが、おそらく同年の小田急の開通にあわせて渋谷-淡島-経堂を結ぶ路線を開設しており、これと小田急の開通への対応のため、路線を三角橋-淡島から三角橋-東北沢に変更したと想像される(なお、幡ヶ谷までの伸長時期は不明である。このあたりの経過は「東急50年史」あたりをみると、もう少しクリアになるかもしれない)**。
[追記]2003/03/01
**「世田谷バス・電車年表」(世田谷区道路整備部交通企画課平成6年3月刊)によると、情報が断片的で、出所もまちまちまので、少し脈絡に欠ける点もあるが、実際には、以下のような経過をたどったらしい(↑の「東急50年史」も資料となっている)。
1920(大正9)年
渋谷・三角橋(現北沢1-17地先、区境)間
代々木乗合(代々木の有志が同年9月に設立)がバスの運行開始
1923(大正12)年9月
五島慶太が取締役に就任(経営立て直しのため)
その後
幡ヶ谷自動車株式会社を買収し
路線を、幡ヶ谷から中野に延長*
* http://www1.cnc.jp/844/tokyu_nakano.html
1925(大正14)年
三角橋・淡島(池ノ上経由)間1.6キロ
を使用車両6台で運行開始
[追記]2007/01/08
「最新交通指導地図 荏原郡目黒町」
鉄道講習会昭和3年2月25日発行
によると
代々木乗合自動車線(三角橋-淡島間)
の路線が、三角橋から(今の)松蔭学園・池の上駅を経て淡島の交差点に至るルートで描かれている。
ちなみに、同社の路線については、
代々木乗合自動車線(渋谷駅前-三角橋-幡ヶ谷間)
も記載されているが、渋谷駅前から駒場道に至るルートは、現在のような上通り交差点まわりではなく、今の、東急本店・文化村のところから、東大前のバス停に至るルートである。
そもそも、淡島通り(や瀧坂道)と駒場道の間には、まだ、三田用水の土手があるだけで、まともな道路(現在の旧山手通り)はまだ開通していない。
1929(昭和4)年8月
代々木乗合が現東急の傘下に入る
1929(昭和4)年11月21日
恵比寿乗合自動車を合併
さらに
現東急のバス事業部門の営業譲渡を受ける
商号を「東横乗合自動車」と変更
[註15]
[37] で公開された[36] による。
引用(出典: [36] . [37] .)
幡ヶ谷・初台方面 < 渋谷駅 < ターミナル別路線解説
本項では、渋谷駅から渋谷区の北側ヘ向かう路線について取り扱う。現行路線は幡ヶ谷行きの渋55と京王との共同運行によるNHKスタジオパークへの路線のみであるが、平成14年5月末日までは渋61にも参入していた。これらの路線は、渋谷駅発着の東急路線の中では珍しく路線が渋谷区内に完結している。
この付近は、大正〜昭和にかけて代々木乗合自動車が路線を開通し、のちに東横、東急と引き継がれた歴史の古いエリアである。
◆幡ヶ谷・初台線と代々木乗合系路線(同時に存在していなかったものを含む)
代々木乗合自動車
代々木乗合自動車は、大正9年12月、東京で4番目の乗合自動車会社として地元の有志によって設立された。最初の路線は、現在の幡ヶ谷線の前身とも言うべき渋谷駅〜三角橋(現・松蔭学園前)間である。同社は三角橋に車庫を置き、ここを本拠に路線の拡張を進めていった。
東急とのつながりは、五島慶太に経営を依頼したことに始まる。五島は大正12年より同社の取締役に就任しているが、これはあくまで経営者同士の個人的なつながりによるものであった。東京横浜電鉄の傘下に収まったのはその7年後の昭和4年8月のことで、同年11月に姉妹会社のエビス乗合自動車と合併して称号を東横乗合に改めた。その後、昭和11年6月には東横電鉄が東横乗合を合併し、乗合自動車業を電鉄直営に改めている。この間運行された路線には、概ね以下のものがあった。
◆本線・幡ヶ谷線
本線は、前述の渋谷〜大向(現・東急百貨点本店付近)〜三角橋間で、大正9年12月25日より運行を開始した。その後、昭和初期までの間に幡ヶ谷乗合自動車を買収し、幡ヶ谷・中野方面に路線を拡張していく(幡ヶ谷線)。幡ヶ谷以先は六号通り経由で、現在の弥生町四丁目付近を通って富士高校前に出て、十貫坂上、鍋屋横丁に至るというルートであった。また、昭和7年から10年の間には、今の杉山公園前経由で中野駅南口まで路線を延長している。昭和15年の路線案内では、渋谷〜中野間での直通運転のほか、渋谷〜東北沢間の系統も確認できる。
◆淡島線
この路線は大正14年2月に三角橋〜池ノ上〜淡島前間を開通したものである。具体的な運行系統は不明だが、おそらく渋谷〜三角橋〜淡島前であろう。渋谷区史によれば、この路線は海外殖民学校、陸軍衛戍病院への近道であるとされている。しかし、渋谷〜淡島間には玉川電鉄(昭和4年以前は日東乗合)が短絡ルート(松見坂上経由)での路線を運行していたため、こちらを利用するほうが便利であった。そのようなことからこの淡島線は影の薄い路線だったようで、昭和7年から10年の間には廃止されてしまう。
◆富ヶ谷線
富ヶ谷線は、渋61・初台線のルーツにあたる路線で、大正年間中にに渋谷駅〜富ヶ谷〜八幡下が開通している。渋谷〜富ヶ谷間は神山経由で往復、さらにそこから代々木八幡駅西側の踏切を渡る旧道を経て八幡下に至っていた。八幡下〜西原を運行していた時期もあったようだが、昭和7年から10年ごろの間に初台(現・初台駅)経由で新町(現・新国立劇場付近)、角筈(現・初台交差点付近)まで延長され、現在の渋61の原型が形作られている。
この路線は、大正9年に開通した代々木乗合自動車の本線を起源とする老舗路線である。当初の終点は三角橋であり、当時の代々木乗合本社(のちの東横代々木車庫)もそこにあった。
[註16]
[39] で公開された[38] による。
引用(出典: [38] . [39] .)
代々木乗合自動車と幡ヶ谷自動車
東急が中野方面に進出するきっかけとなったのが、代々木乗合自動車による幡ヶ谷自動車の買収である。
代々木乗合は、渋谷〜三角橋(現・松陰学園前)間などで営業していたが、同社の買収によりエリアを幡ヶ谷・中野方面に拡大していった。その正確な時期は不明だが、大正末期〜昭和初期のことであり、買収まもない頃の中野地区路線は、幡ヶ谷〜中野登記所間と東京高等学校〜上ノ山間だけだったようである。
同社はその後、昭和4年11月21日に姉妹会社のエビス乗合自動車と合併し東横乗合となる。
[註17]
[40] による。
引用(出典: [40] .)
渋谷区北部の路線も同様に長い歴史を持つが、こちらは大正9年創業の代々木乗合自動車に始まる。代々木乗合は、昭和3年に幡ヶ谷自動車を合併して中野区方面に路線を拡張したのち、昭和4年にエビス乗合自動車と合併して東横乗合となり、東京横浜電鉄の傘下に入った。この地区では、渋谷駅~幡ヶ谷~中野駅線を中心に運行しており、三角橋(現在の松陰学園前)に代々木乗合創業以来の車庫(代々木車庫)を有していた。
[註17_2]
[40_2] による。
引用(出典: [40_2] .)
東横乗合は、恵比寿・田町方面を運行していたヱビス乗合自動車に、同社の姉妹会社で渋谷・中野方面で営業していた代々木乗合自動車を合併のうえ、改称したものである。
[註18]
[41] による。
引用(出典: [41] .)
東横乗合が中野で営業するきっかけとなったのは、その前身の1つである代々木乗合自動車(東急バス淡島営業所参照)が1928年に幡ヶ谷自動車(幡ヶ谷~中野登記所)を買収したことである。
[註19]
[42] による。
引用(出典: [42] , pp. 39-40.)
大正九年、代々木乗合自動車が東京で四番目のバス会社として営業を開始した。路線は渋谷~三角橋(現松陰学園前)間二・七粁であったが、営業成績は芳しくなかった。乗合自動車業に経験が深く、東京市電を退職した近藤富次郎さんは、新たな仕事として代々木乗合自動車の将来性に目をつけ、金八千円を投資して経営に参画するようになった。早速渋谷駅前のバラック車庫に蜜柑箱の椅子を並べて、近藤さんとその一族は終日、血の出るような経営に苦難をなめたが、ようやく同社の立直しに成功した。
代々木乗合自動車はその後、幡ヶ谷自動車を買収して、幡ヶ谷から中野方面にまで路線を延長した。
[註21]
[43] による。
引用(出典: [43] .)
小田急線代々木八幡駅から渋谷方面を眺めると、左は代々木公園の台地、右は上原の台地、その狭間を宇田川が流れ、その流れに沿って代々木八幡駅から渋谷に通じる道。
関東大震災(大正12年9月)以降、この辺りには、渋谷方面から震災の被害にあった人や、渋谷の郊外に居をかまえる人などが多く集まり、人家や商店が増え始めた。いつしかその道に市営代々木乗合自動車が走り、渋谷との交通が開けると(大正13年)その後東横バスとなり、やがて街としてにぎやかになっていったのである。
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